3月11日の東日本大震災以降、初めて仙台空港に降り立ちました。





私にとって仙台空港は、毎年一度は利用している、非常に馴染みのある空港です。

3月11日当日、テレビにリアルタイムで映る、津波に襲われる仙台空港を目の当たりにして、
文字通り、ショックが大き過ぎて一言も発せないまま、画面を凝視していました。

あれから約5ヶ月。
仙台空港の復旧作業は急ピッチで進められ、今では旅客機の離着陸もできるようになっています。

仙台上空にて「まもなく仙台空港に着陸します」という機内アナウンスを耳にし、
緊張しながら窓の外を見下ろしました。
眼下の雲海が途切れると、穏やかな青い海が見え、いつもと変わらぬ風景が。
やがて海岸と滑走路が視界に入ってくると、
昨年見た際は青々としていた防潮林が見るも無残に薙ぎ倒され、まばらに残り、
辺りには折れた流木、未だ引かない水溜まりが見え……
その数秒後には、滑走路に着陸していました。
しかし、その僅か数秒間の異質な光景に、思わず涙が滲んできてしまいました……。

仙台空港発の飛行機の待ち時間を潰す間、時折足を伸ばして立ち寄った、海近くの運動公園。
中高生が試合をしていたテニスコートや、地元の方々がのんびり散歩をしていた小路、
その海浜公園に至るまでの道の両側にずっと並んでいた松の林は、
きっともう跡形もなく流されてしまったのでしょう……。

仙台空港に降り立ち、手荷物引換所を通って、到着ゲートを出るまで、
地震と津波の爪痕は表面には見えませんでした。
空港施設の一部は未だ閉鎖されているとはいえ、
少し手狭な施設内は整然としていて、冒頭の写真のように、
空港の玄関には仙台七夕祭りの飾りがぶら下げられています。
いつもと変わらぬ仙台空港の風景です。


しかし、駐車場やJR駅へと続く2階通路は今も閉鎖され、
駐車場付近の縁石などがところどころ崩れ、物々しい重機が工事をしている真っ最中でした。

仙台空港を車で離れ、走る道すがらも、大破した建物、空き家と化した食事処などが目立ち、
そこにあったはずの民間駐車場などが忽然と姿を消していたり、
道路の一部損傷や、道沿いにうず高く積まれた瓦礫の山が目につきました。

海と平行に走る有料道路(仙台東部道路→常磐自動車道)を南へ、終点の山元まで走りました。






7月24日にKスタ宮城でのオールスターゲームで、
楽天イーグルスの選手会長・嶋選手が、こう挨拶していました。

先日、遠征へ行くために、仙台空港へ向かう途中、青々とした光景が見えました。
4月7日に僕達が初めて仙台に戻ってきた時に比べると、一見明るい景色に見えましたが、
よく見るとそれは田んぼや畑に無造作に広がっている雑草でした。
それが意味することを考えると、やりきれない気持ちになりました……。


その言葉の意味を、自分の目で見て、絶句しました……。

17kmの距離を走る間、左手の海側には、どこまで行っても青々とした緑や、
場所によっては未だに水溜りが広がっていました。
ショベルカーなどの重機の姿も頻繁に見かけました。

私は長年、田んぼや山々の風景に囲まれて育ってきたので、
その一面の緑が稲でないことは一目見て判りますし、
この盛夏の時期に、田んぼが雑草で覆われていることが、いかに奇異で尋常ならざる事態かも……愕然としました。
そして、その光景が何km走っても続いている現実に、胸が潰れそうな沈痛な気持ちになりました。


東日本大震災から5ヶ月経って、瓦礫の撤去も徐々に進んでいるので、
震災直後はもっと悽絶な光景だったことでしょう。
この被災地で5ヶ月間の日々を過ごし、
さらにまだまだ先の長い復興の道のりを歩まなければならない地元の方々の心中は図り知れません。
私なんかが、胸を痛めたり沈痛な気持ちになるのは、おこがましくてお門違いなのかもしれません。
当事者の方が必要としているのは、同情でも感傷でもなく、
元の日常を取り戻すための、具体的で実際的な支援の手や援助だと思うので。

それでも、震災後初めて自分の目で見た、見慣れた土地の見慣れない異質な光景に、
どうしても私の感情は掻き乱されてしまいました。

今回、仙台へ行くにあたって、現地でボランティア作業をしたいと3月から思案していましたが、
結局、ボランティア作業は断念しました。
日程的に難しいこと、充分な装備が用意できないこと、自分の体力的な不安、現地の情報収集ができないなど、
いろいろ考慮した結果、これまで通り毎月の募金という形で、被災地のお役に立てれば、と思い直しました。
仙台に来ながら、ボランティア作業ができなくて申し訳ありません。
でも、募金や観光でほんの僅かでも東北のお役に立って、
せめて気持ちだけは被災された方々に寄り添わせていただきたいです。
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